第1章.木曽・吉野古代の先住民


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1. 吉野人の祖先
今回の発掘調査によって吉野には、縄文時代早期、前期、中期、後期、弥生時代後期と、連続して人が住んでい
たことがわかった、しかしながら弥生時代後期と認められた住居跡や土器等による弥生文化の痕跡は極めて少な
いことから、今回発掘れた弥生時代後期の遺物は大陸の渡来人が其れまで住んでいた縄文人と交わりながら広が
ったという弥生文化とは異なるもので、吉野以外からの刺激や情報によって、それまで住んでいた縄文人のなか
から弥生文化が徐々に生まれてきたものである。(これに西澤幹二さんの主張全く同じ)
 
これだけの資料では今のところ吉野から出土した弥生の遺物に関してどのように解釈されるのか、今後の検討葉
を注目したい。また吉野の稲作開始はそれまでに進化していた和人が先行していた弥生の村から取り入れたもの
か、或いは新しく入植して来た弥生人といわれる人達によってもたらされたか?、特に興味のある問題である。
 
弥生時代の約800年経った平安時代の遺跡・遺物が数多く出土して、吉野には古代からずーと連続して人が住み
続けていたことはほぼ明らかになった。現代の吉野で生まれた人達の遠い祖先は縄文人であり、その後徐徐に進
化してきた和人である、渡来した弥生人の後裔ではは無く純粋の和人が更に進化を進めて来た人であるものと考え
られる。
 (縄文人の人骨の特徴“ひじから先やひざ下が長い)
 
関連記事:(1-50)(1-12)(1-13)
 
[1] 古代の木曽
 木曽には縄文中期の土器が各所から出土している。木祖村(柳沢)、日義村(上ノ原・巴ノ松・小原沢)、福
島町(川上・猿子島)、開田村(柳又・菅沢)などに出ている。しかし弥生式土器は少なく、僅か田立・宮ノ越
・福島町(御重)ぐらいである。
 
これは先住民族以来長い間にわたり、狩猟生活をしていて縄文式土器を使っていたためであるといわれている。
それに木曽は水稲栽培に適さなかったから、弥生式文化が長い間、入らなかったためと見られている。先史民族
は木曽の豊かな禽獣・魚類や木の実・草根を食料にし、自給自足の生活をしていた。そして日当たりのよい所に
、竪穴生活をしていたものと思われるが、木曽は何処でも水が求められ、食料が得られたということが彼らを安
易な生活にふけさせることができたのである。
 
 これら先史民族の居住地は、樹木の繁茂している木曾川沿岸よりも、木曾川の支流をさかのぽった台地のよう
な地形が最適であった。西野(開田村)のような盆地状の高台は、彼らのよい居住地であったであろう。西野川
と末川の合流点の柳又には、多数の縄文式土器や石器が発見されている。特に当時は氷河期の後を受けて、気候
が低温であったから、鮭や鱒が海から木曾川をのぽり、小さな支流まで群れをなしてさかのばってきた。開田村
の末川のほとりにある増渕は、その名の示す如く長い間にわたって鱒がとれたという。
 
 延書式や伊勢神宮の年貢の中に、鮭や筋子が記されているのをみても、信濃は海の魚のとれるところであった。
当時は海の魚を海中でとることは、技術的に困難であっが、川にのぽってきた魚は容易に捕獲できた。よって信
濃のような山国がかえってよい漁場となっていたのである。
 
 木曽の山中はまた獣や鳥が豊富であった。しかも捕獲に必要な鏃の原料である黒曜石が和田峠付近に産したこ
とも、狩猟生活には好都合であったであろう。また胡桃・栗・栃の実・ドングリをはじめ草の根食料も豊かであ
り、科・椿などの繊維植物も自生していた。
 
[2]吉野遺跡群の調査報告書


 
中山間総合整備事業地内埋蔵文化財発掘調査報告書
吉野遺跡群
 
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