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●風越山の鳥屋(とや)
・終戦前までは風越山のてっぺんの北向きの所に鳥屋(とや)があり、十月の半ばから十一月いっぱいくらいの
間に霞綱を張って渡り鳥を捕っていた、その頃は野尻のはぎばのお爺が鳥屋場から少し離れた所に茅萱の屋根、
茅壁の小屋を設けてあった、小屋の中は真ん中に囲炉裏がありその隅には焼き鳥に付けて焼く醤油壷が置いてあっ
た。
 
小屋の回りには囮になる鳴き声のよい各種の小鳥寵を置いていた。早朝、夜明けと共に北から南へ渡って行く小
鳥の大軍が囮の鳴き声に呼び寄せられて近付いてくるのを発見すると、木の上で待ち構えていたおやじが、すか
さず絹旗を強く振って鷹の羽音の様なバタバタという音をさせると、渡って来た小鳥の大群は危険を察知して急
に下降し、張り巡らしてある高さ三メートル位の霞網にひっ掛かり一網打尽にされる仕組みであった。
 
捕獲される小鳥の種類は、アトリ・ツグミ・ヒワ・ウソ・シメ・イカロ・等で在った、綱から外すと直ぐに首を
締めて殺し、縄の縒り目に首を挟んで吊るして置き、家の人が持ち帰って売り捌き現金収入としていた。吉野の
子供たちは十月の末から11月頃になると学校の休みの日に、大根や野菜を背負って昇って行き、野尻の爺に渡し
、小屋の中の囲炉裏で小鳥を焼いてもらって食い、爺の山の様子や吉野の村の様子などの話をして、帰りに網は
に掛かったアトリや鶸の生きて居るやつを貰ったりして持ち帰った。 《写真a〜f》

 小鳥の大群は毎朝網に掛かるわけではなく、良く晴れ渡り寒い朝に越して来るのである。中でも、『おとのく
んち』(この日は11月前後に3回あり、「始め、中、おと」 のくんちといっていた、)は鳥盛りと言って小鳥が
良く捕れたらしい。
鳥屋は風越山の天辺よりまだ上の方にもあり、吉野のさこりの人が囮なしで越し鳥を捕っていたらしい。小規模
のものであったようだ。
 
小鳥は羽毛を毟って串にさして焼き、タマリのたれつけてこんがりと焼き上げ頭ごと食ってしまうのである。
ツグミやアトリは口元まで木の実の皮を剥いた粒を食っているものもあり、香ばしくて実に美味である。
毛を毟って麹醤油の中に漬け.込んでおき、正月等に食べる事もあった。終戦後は密猟以外鳥捕りをやらなくなっ
た。
昔は小鳥も山国の貴重なタンパク源であった。
 
記事:
■鳥屋(とや)の思い出
上記の小史では、「終戦前までは・・・」なっていますが、中学2年ころ(s36/(1961)に山頂まで遊びに行った
とき(又は道案内で登った時)、風越山頂の北側所に鳥屋(とや)は、まだ(戦後再開か?)ありました。
 
そのころは野尻の人ではなく見帰りの人がやっていました。特に鳥屋を見に行った訳ではないが、絹旗を強く振
って、三メートル位の霞網にひっ掛かけ一網打尽にされる仕組みは、昔と同じ方式でありをそれを見た記憶ががあ
ります。
 
<本ページに出てきた野鳥:左から、aアトリ、・bツグミ、・cヒワ、・dウソ、下左から・eシメ、・fイカロ >
 
   
 
 
 
 
 
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