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●はりきば
・『はりきば』此処には原っぱが上と下に別れてあった、上の原の上端には小さい桧林が有り、林の中は平らな
所が有ってその上に「水天宮」一基が祀られてあった、(水天宮をここに祭った理由は?)《写真a》 
 
ここでも「ひかんべら」の山の神まつりと一年おきに交互で八十八夜の日にお祭りをしていた。「はりきば」は
伐採した材木の集積場所でもあり、戦時中と戦後の一時期に板や角材の製材をしていた。下の原っぱの横の方に
は「おんじごや」「きっぱた」など木が生えていないススキ原で、焼き畑の痕跡もあった。『はりきば』も共有
地あった。《注1》
●ほんばし
・『ほんばし』共有地、断層から湧き出るて来る冷たくて美味な水の沢があるこの沢は「みっさ」の沢の次ぎに
大きい沢であり、箱石のいすぎが作られる前までは、飲料水、水田用水として貴重な存在であった。昭和に植え
た杉の木が多く、戦時中山火事に会い、その後暫くはクマイチゴや喬木の薮になっていた、戦時中は其れらのやぶ
を刈って青灰を作り肥料にしていた。
 
●はらろ
・『ほらろ』 この意味は何回考えても調べても解らない地名である。戦時中までは赤松の巨樹(径1.5m)推定
樹齢200年、江戸時代に植えたものと考えられる。此の山は比較的赤松林が多く、コナラ、ツツジ群落と共存して
いる。
自ツツジはめったに無いが此処の山道沿いなどには群生していた。このツツジの葉わ三つ葉ツツジなどと全く異
なる。正式な名前を調べる必要がある。田植えまえになるとこの山では柴刈りが盛んに行われていた。
 
秋には囲炉裏などの焚き付けにする、「ぽや」は春に切て枯らした喬木の小枝や幹を束にして背負って来た、こ
の作業を「ぽや背負い」(ぽやしょい)と言っていた。この山に生えた茸、坊主タケ・チチタケ・イクチ・キイシ
メジ・などが良く取れた。
下の方の小畑の山には嗣があり、三峰荒神を祀ってあり夜たまに灯明の明かりが見えた。
誰か秩父へ行ってお迎えして来たものであろう。(ほらろ呼称していた所は、「鍋そこ山の北面の中央部)
 
 
記事:
<a.『はりきば』水天宮の写真>


 


《注1》「きっぱた」は遠足に来た
はりきばの下の原っぱ横の『きっぱた』(隣の家の私有地)は、小学校2年(3年?)の春の遠足の場所で、オレ
の家から5分程度の所ですが、町からは子供の足では1時間以上掛かるので、町部の人にはちょうどよい距離だっ
たと思う。遠足の日は学校まで行き、皆を連れていきた記憶がる。1時間掛けて学校へ行き戻ってきて家の前を
通り越して、5分登った所へ行くのには矛盾を感じたが、先頭で案内して気持ちがよかったし、一度学校へ行か
ないと遠足にならないのでしょうが無いかな。 なお、帰りは家の前で皆と別れたので帰りは5分の遠足だった。
 
『はりきば』の下の原っぱには他にも思い出がある。中学2年の夏や休みに名古屋からボーイスカウトが30人ほ
ど来て、此処にテントを張って1週間ほど滞在した。(テントを張った場所は村の共有地の『はりきば』でなく
、実際その横のオレの実家の私有地でおこなった)。その時は村の人数人が荷物運びを手伝い、オレも手伝い小遣
いをもらった記憶がある。
なお、キャンプに吉野へ来たのは、戦時中に名古屋から吉野に疎開していた方の紹介で、その方はオレの実家と
親しいかったそうです。このボーイスカウトで覚えていることは、風越山への昇りたいとの話があり頂上まで案内
しました。
 
それより更に記憶に残っていることは、雨が続きテントの場所が山崩れが起きないか心配した1人の母親が吉野
まで見に来た。その方はオレの実家に泊まり1日で安心して帰りましたが、ボーイスカウトは弟がきているがそ
の兄は蝶の採取が好きで今度は近いうちに蝶採取に来たいので面倒みて欲しいと依頼された。実際その兄を連れ
て数週間後にきたが、お土産に
上松では売っていない折りたたみ式の網と、標本箱を頂きました。前から空いた菓子箱に蝶の標本を入れていた
が、本当の標本箱を頂き凄く嬉しかった。そんな事もあり、蝶採取が好きになり、高校3年まで蝶採取が続き100
種類以上集めました。
名古屋の方は2日ほど家に泊まって蝶採取をしまたが、後で判ったが名古屋では有名な証券会社の社長の息子と
のことだった。その後付き合いは無いので消息は知りません。
 
『ほんばし』の思いでは、小学生のころよく沢蟹を取りにいきました。大きな石をヒックリ返すと蟹が2匹ほど
逃げて行くこともあり半日で20匹〜30匹捕まえました。捕ったカニはカンズメの空き缶に入れ茹でて食べました
。茹でると赤くなり大きな爪も含め丸かじりするが、香ばしくて美味しかった。
 
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