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(1)吉野熊野権現への寄付者姓名
享保十八年(1733)十月二十九日の棟札に記載されている寄進した人の姓名は27人、名前だけの人三人。
 
同じ性では、いつりやう3、中畑3、さこり2、木下2、山○2、寺田2、新屋2、が載っている。同姓の人達の中に
は、別の家と、同じ家で戸主、隠居、伯父が同居していて一軒の家の場合があるものと思う。  《注1》
従って、いつりやうは三軒、中畑は二軒、木下は二軒、寺田は二軒、あいどは一軒、木戸、新屋、山○、は不明。
そうすると吉野には何件の家があっただろうか?、さこり、志水、井領3、木下2、山○、田中、中田、越、中畑
、小畑、大畑、横道、寺田2、あいど、木戸、新屋、水口、で21軒となる(前野は別)。
 
二つの組があり、組頭は「さこり久七」と「寺田新蔵」、有力者は「あいど又三郎」であたところが窺われる。
 
◆当時、中島、保手、横井、中沢、田沢、の姓は見当たらない。
 上松町郷土研究会督料『故郷の歴史教室・昭和62年5月31日』の「熊野神社」の紹介の記事では、享保18年の
棟札の人名として「中嶋」 「よこね」の姓が書かれていると記戴きれているが、『吉野熊野神社調査報告』で
は「中嶋・よこね」の二つの姓は見当たらない、いずれが正しいか?これは、問題点である。
 
◆此の後明治二十ニ年までの(1733〜1889)百五十六年間に無くなっている姓は、「山○、中田、新屋、木戸、
、水口、の六姓である
右の六姓の家の存在位置を棟札記載の順番から推定してみると、「山O」は木下付近、「中田」は田中(しゅっ
ペの)と越の間、木戸と新屋は合戸の極近所。水口は?、
 
◆享保十八手(1733)ころは前野はまだ吉野と同じ村としての共同体でなく、前野の塞ノ神を境に別の村であり
、約九十年後の文政六年(1823)以前の伺に合併したものと想像される(文政六年の本社殿石垣の邊宮時の札か
ら見て)
◆今まで平氏が名字を得たのは明治四年の廃藩置県の時と思っていたが、吉野ではそれ、よりも170年以上も前
から名字を名乗っていたことが明らかになった。(一般的には江戸時代から名字はあったと言う汲もあったが、今
回証明された)。
 
◆享保18年(1733)の吉野の人口をおおまかに推定してみると、27軒×六人として150人前後の人が募らしてい
たものと想定される。享保のころ木曾谷の人口は、三万二千七有人(川埼敏・木曽による)であるから吉野の住
人はその0.5%にあたる。
 
(2)明治二十二年の軒数
・前野鍋蔵・前野亀太郎・合戸文左衝門・寺田已之助・寺田亀音・田沢吉工門・大畑栄助・横道万古 ・南 乙
吉・中畑長之助・小畑安右衛門・中沢林蔵・保手作十・田中安五郎・越  長助・横井仙助・木下重助・中島長
十・木下岩吉・井領和働・井領銀蔵 ・井領周吉・清水カン・佐郡勇次印・
(以上24軒全部農業)(郷土研究会報第16号、木曽郡上松町郷土研究会)
 
(3)昭和二十年(敗戦)(1945)
・前野金太郎・前野寅吉・前野とみ・前野今朝音・合戸乙吉・寺田幸七・寺田鍋吉・寺田鍋吉・田沢末吉・大畑
丈吉・中畑要蔵・小畑乙松 ・南 作十・横道徳蔵・中畑博六・越 カツ・中沢小三郎・越 計男・中沢勇市・
木下鉄次郎・田中幸夫・越 小左衛門・横井鍋吉・横井直太郎・中畑弥次郎・中島八蔵・中島幸太郎・佐郡金次
郎・木下弥三郎・木下源太郎・井領小右衝門・井領忠助・井領嘉右衛門・清水○○・佐郡銀次郎
(以上35軒)
 
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<注1.吉野熊野神社調査報告書の一部>

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